サンビスカス沖縄/サッカースクール/運動あそび/障がい者スポーツ指導員
谷本 優希
いままで特に何の違和感もなく使っていた「さすが!!」という褒め言葉について。
なんだか急に「あれ・・・・・?」っと感じたことがあったので、その違和感の原因を探ってみました。
それは、サッカースクールで子どものドリブルを褒めた時のこと。
並べたマーカーをジグザグにドリブルする練習で、長年スクールに通っている子が、スルスルスル~っと華麗なドリブルをしていたので「おっ!さすが!」と一言。
ただただ本当に「すごい!」と感じたから発した「さすが」であったし、褒められた本人も、ふふん♪くらいの反応で、別になんにも問題はなかったのですが。
「さすが!」ってなに・・・・???
それって子どもにはどう伝わるんだろう?
言われた子どもは「さすが」をどうとらえるんだろう?
と、自分で褒めておきながらも急に気になってしまって。
前提とその受け取り方
「さすが」という言葉が出る時というのは、「この子ならできるとわかっている(思っている)」「この子にとってこれくらいは当たり前」みたいなことが前提にあるんだと思います。
自分でも気付いていないくらいに無意識レベルでその前提を持っていて、その前提と実際が一致したときに「お~!さすが!やっぱりできるじゃん」って。
となると、受け取る側もやっぱりそれは無意識レベルでその前提を受け取って「でしょ?」「あたりまえじゃん」の受け取りかたになるんだろうなと思うのです。
つまり私がドリブルの華麗さを「さすが!」と褒めたことに関しては、
「長年やっているからできるだろう」
という前提がいつの間にか私の中で生まれていて、褒められた子どもも「まあね」と受け取ったのだろうと。
「長年やっているから上手いね」→「まあね」という、
それ以上でも以下でもないやりとりになってしまったことに対して、
そうじゃないんだよ~、という感じ。
これが「さすが!」という褒め言葉に感じた違和感だろうなと思います。
本当は、
「いまキミが上手くドリブルできるのは、この数年の努力あってのことだね!すごく頑張ってきたもんね」
ということが言いたかった私。
「さすが!」という言葉が悪いわけではなくて、でもその一言の後の部分を勝手に端折って、勝手に「伝わっているだろう」と思っていてはいけないな~と感じたのでした。
人と比べるための材料になっていないか
さすが!という褒めかたについて考えていたときに、もう一つ気になったこと。
それは、意図せぬところで
「子どもに人と比べる材料を与えてしまっていないか」
ということです。
ドリブルが上手なことに対してさすが!の一言だけで褒めたことによって、子どもが「まあね、オレ上手いし」と受け取っていたら。
他の場面でもたとえば
テストでいい点を取った子が、さすがだね!と言われて「まあね、頭良いもん」と受け取っていたら。
かけっこで一番になった子が、「まあね、運動神経良いもん」と受け取っていたら。。。
人と比べて得るものは自信ではなく優越感。(自分を超える人に出会ったら劣等感に変わってしまう)
人ではなく、過去の自分と比べるように。
と普段から子どもたちに伝えている身であるにもかかわらず、これいつの間にか、人と比べる材料を与えてしまっていたのではないかな、と思ったのです。((ぞわっ
子どもが何かできるようになったとき。
子どもが何かを達成したとき。
子どもの成長を感じたとき。
「さすが!」に続けて、「すごいじゃん!どんな風にがんばったの?」「どれくらい努力したの?」というような会話を入れることで、子どもが自分で自分の頑張りを認め、真の自信を手に入れてくれたらいいなと思います。
子どもへの言葉がけ。
たった一つの褒め言葉でもこだわっていきたい。
だって、「まあね」で終わるのか、それとも
「自分って頑張ったんだな」
「頑張ったらできるんだな」
と感じさせることができるのかでは大きな差。
日々試行錯誤しながら、こういう部分もアップデートしていきたいと思います⭐︎
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